ミニマムライフ

今日は、やはり1日沈んだ感じだった。

仕事で、少し残業して、さほど遅くもなく帰宅。

食事をして、ニュースを見て、余計に沈んだ気持ちになって、何もする気にならない。何もする気が無いのに、どうしても食欲はさほどないのに、食後に余計におやつを食べてしまう。自分としては、結構希な事態となっている。でも、なぜか止まらない。 体と心が、何かを感じてしまっているのだろうか???


自然災害の直接的な影響以上に、二次的に人間の技術の粋の結晶で有る筈の物が脆くも破壊されて、予断のならない状況に追い詰められかけている、その状況を毎日見聞きしていることが紛れも無く逃れ様の無い現実である事に間違いないのだけれど、それが現実である事をどうしても拒絶したがる心が有る様な感じがする。。。


とりあえず、約一ヶ月前から、自室でも、車の運転中でも、エアコンを点けない暮らしを続けている(UTMFに向けてのささやかな一歩と思って)ので、それは継続しておこう。ただ、新城トレイルレースに限らず、名古屋国際も中止、Jリーグも中止、オープン戦も中止、ザックジャパンは親善試合やるべしと一瞬みかけるもその後その発言見かけず... となっており、社会・交通・インフラが有る程度復活し、人心が落ち着くまで、(何年もかかるか?)、しばらくレクリエーションやイベントは中止になっても仕方が無いのかなぁ。。。


ニュースを見ていて、そう言えば今はその範囲外に住んでるけど、福島でなぜに東京電力なのだろう。本当に安全だったら、関東に作っていただろうし、実際人智の及ばない事態が起きた結果、完璧に安全では無く脆弱な面が潜んでいた事が証明されてしまった。


発電機、安全弁、フェイルセーフ、フールプルーフ、… と色々有っても、それらが壊れる事は必然なのだから、絶対動き続けなければならない時間・水量があるのなら、それを確保する手段が100%維持出来ないと駄目だということなのでは無いか。

これも極論だと思うが、原子炉より相当高いところに、必要な水量の2〜3倍の純水貯蔵タンクを設置して、丈夫な配管と手動弁、手動ポンプ?を介して重力によって水を供給出来る単純な仕組みが必要なのでは無いだろうか。ただ、炉内の圧力がメチャクチャ高くてそれに相当する圧力を得られる、水槽・配管、手動ポンプの仕組みを実現出来るのか、私には想像すら出来ない。

ただ、そんな究極の選択みたいな、最終手段が担保されないのだとしたら、原子炉を安全に冷やす最終手段が確立され得ないことになり、原子炉をエネルギー供給の要として安全に運用し続ける前提が無くなり、我々は原子炉を製造し販売した人に安易に騙されたことになるのだと思う。

原子炉が安全だと言ってセールスする人が、原子力発電所のすぐそばに自宅を構え、子孫もそのそばに住まわせているという、そういった事態が、世界中をくまなく探して、実際有るだろうか。そんな事が有るとは、私には想像しにくい。


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こちら、知らなかったのですが、素人がみてもすごくヴィジュアルに訴えかけてくれるので分かりやすい。難しいことを難しくでは無く、難しいはずの事を分かりやすくってのがすごいなと思いました。

東京大学地震研究所
http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/ul/EVENT/201103_Tsunami_DrSatake.gif

広報アウトリーチ室 – 東京大学地震研究所津波シミュレーション(古村教授)

http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/ul/EVENT/201103_Tsunami_DrFurumura.mpg



あ、これはまだ良く見て無いけど、載せておこう。。。

地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html


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少しだけ、ひねくれた見方をどうしてもしてしまうところが有ります。

実際の生活では、ランニング、トレイルランをしているとは言っても、会場までの長距離をガソリンを沢山燃やしながら自動車で移動している事が多いです。自分自身の体は、完璧な自然のなかで、キツイけど快適な時間を満喫しつくしているのに、その前後で相当しぜんをないがしろにしてしまっているのを、分かってはいるのですが、それを省みる事が出来ていませんでした。

ただ、今回の様な事態が発生して、電力やガスの使用を押さえ、ガソリンも入手しにくくなり、ネオンは消え、不要な街灯が消され、自家用車では無く公共交通機関での移動が増え、自転車や徒歩による移動が促進され... という事を日本中で重ねていくと、 本当に必須なインフラだけが残ってあとは過剰 あるいは 余剰な部分だったんだという所に行き着いて、必要最低限のミニマムライフに我々の日常生活が収束して行くのでは無いかとふと思えてしまいます。

とすると、CO2の発生量の例の目標値も、ミニマムライフに収束していった結果達成されてしまうかもしれない。

食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで、それも自身の望むまま、と言った、世界的に あるいは 歴史的にみても希な 過剰な状態を、それも過大な借金を重ねて継続している我々なのですから、偉い人に天罰だなんて言われなくても、自分自身の基本を改める岐路に立たされている様に思えて来ました。